馬に乗ってあちこち訪問していた東條英機首相。国民の声を聞き、激励していた。
- 2019/01/13
- 08:21
以前このブログで、東條首相が大森捕虜収容所に事前の予告なく抜き打ち訪問し、所員を慌てさせたことを書いた。
東條首相、「アンブロークン」の舞台、大森捕虜収容所を電撃訪問。「貴官らはゆめゆめ俘虜に乱暴してはいかんぞ」と訓示。そして両足切断の英兵を激励。
東條首相の大森収容所を二度訪問している。そのことについて、元捕虜のマーチンデール氏は次のように語っている。
「世に東条は歴史上大悪人とされているが、少なくとも彼は心中、我々俘虜に対し憐憫の情を抱いていたのだと思う。彼は人道の心を持っていた。凡そ一国の戦時指導者が敵国捕虜の収容所を二度も視察に来たという事実は彼の我々に対する憐憫の情、人道の心なしには考えられない」
今回は、その捕虜たちが働いていた芝浦に、東條首相が訪問した話である(『英国人捕虜が見た大東亜戦争下の日本人』の著者デリク・クラークも芝浦で1年ほど働いていた)。
東條首相は、逼迫する戦局の中、何度も芝浦での港湾作業を視察し、日本人作業員を激励したということである。しかも東條首相は馬に乗ってやってくるのだという。
以下は『東京港史 第3巻 回顧』収録の「〈座談会〉東京港の回顧」から。
高嶋(司会) 例えば太平洋戦争が昭和16年に起こり、それから昭和20年の終戦がありました。この4年間というのはどういう動きだったのですか。全部軍需物資なのか、普通の一般の貨物があったのかどうかなどを知りたいのですが。
芦沢一吉(大東運輸相談役)
一般貨物です。商船に積む食料その他もありました。当時応召者が多く、働き手は不足していました。
東條大将が馬に乗って時々突然芝浦へ見に来ましたよ。「どうだ、物はあるか」とか言ってね。
軍手をくれたり足袋をくれたりして激励にきたわけです。
港から出ていった軍用船がどんどん沈められますから、港湾荷役を大いに能率をあげてもらわなければ困るというわけです。
ものが足りなければ補給するぞというようなことで、馬に乗って芝浦にちょいちょい見に来ました。
そのとき軍で使うものも食料ももちろん、いろんなものが国内で動いたわけです、東京へも揚がったわけです。
このように、東條首相が馬に乗ってあちこち激励に訪問したというのは有名な話らしく、『画報躍進之日本』昭和17年1月号に、その様子が「東條さんの街の政治」というタイトルで紹介されている。その写真雑誌の表紙が、靖国神社の神門、第二鳥居を背景に颯爽と馬に跨がる東條首相だ。
以下はその記事の内容である。
一億一心、国民総進軍態勢へと臨時議会の開かれる十一月十六日の朝霧をついて、あすの歴史的施政方針演説を前にして、内外の視聴を一身に浴びた東條首相は愛馬菊網号に跨って靖国神社に参拝し護国の英霊に額(ぬかず)いたその帰り道、街の商店に立寄り、又は国民学校生徒に話しかけ、消防署の視察をし、民意をきき、官吏の言葉をきく陸相であり、内相である東條首相の朝はすがすがしい街の政治からはじまるのだ。
東條さんは十五日遅くまで首相官邸に臨時議会に望む想を練っていたが、十六日の朝はちゃんと五時三十分に床を離れた。六時五十分、鼠色の乗馬服にソフトの軽装の総理は愛馬菊網号に跨って旭光と朝靄を切って並足から速足に議事堂を横目に驀(まっしぐ)ら。
それから八時十五分官邸に帰った。内濠一周の朝の騎乗は一時間二五分。『やあ御苦労』と手綱を馬丁にあずけて門に入った後姿には断固所信を実行する逞しい決意が燃えていた。
商店のお内儀(おかみ)さんと時局問答
『お早う、商売はうまく行っているかね』
まず馬首をとどめたのは麹町四丁目水洗器具商前田商店の店先、ためらい勝ちに応えるお内儀さんの喜代さんに、不足勝ちな品物も代用品を使うようにと、やさしく言葉を残して、東條さんの先ず民情視察であった。
国民学校のお嬢さんたちを愛撫
遊就館前で下馬した東條さんは折から境内の落葉掃きに余念のない牛込区北町愛日国民学校のお嬢さんたちに、
『おお毎朝来ているのか、年はいくつ‥‥』
と優しい言葉をかけながら拝殿にすすみ、鞭と帽子を傍らにして、柏手二ツ、みじろぎもせず長い黙祷であった。
丸の内消防署の望楼から
馬蹄は再びアスファルト道路を軍人会館前、眼に止まった大手町の丸の内消防署、ツカツカとはいった東條さんは内城署長の出迎える暇もなく忽ち鉄梯子を攀(よ)じて四階の火見台に上ってしまった。署員への細かい質問も次から次へ、それから署内を見学して外に出た。恐らく帝都防衛の感想が浮かんだのであろう。
小僧さんに職域奉公を訊く
伝書鳩の練習に行く鳩屋の小僧さんをめつけた東條さんは、
『どうだ精が出るかね‥』
と小僧さんの職域奉公振りを、やさしく訊ねた。
警視庁救急車本部で
救急車本部に来た東條さんは、早速に署員に細々と質問し、市民の安全に就いて熱心さを示して帰った。
これらの写真が撮影されたのは、日米開戦約3週間前の昭和16年11月16日。すでに日米交渉が決裂した場合の武力行使は決定されており、10日後に南雲機動部隊が単冠湾から真珠湾を目指して出港、という状況にあった。東條首相にかかる精神的重圧は尋常なものではなかったろうと思われるが、そのような心のうちを表に出さず、馬に乗って気さくに国民に声を掛けていたのである。
東條首相、「アンブロークン」の舞台、大森捕虜収容所を電撃訪問。「貴官らはゆめゆめ俘虜に乱暴してはいかんぞ」と訓示。そして両足切断の英兵を激励。
東條首相の大森収容所を二度訪問している。そのことについて、元捕虜のマーチンデール氏は次のように語っている。
「世に東条は歴史上大悪人とされているが、少なくとも彼は心中、我々俘虜に対し憐憫の情を抱いていたのだと思う。彼は人道の心を持っていた。凡そ一国の戦時指導者が敵国捕虜の収容所を二度も視察に来たという事実は彼の我々に対する憐憫の情、人道の心なしには考えられない」
今回は、その捕虜たちが働いていた芝浦に、東條首相が訪問した話である(『英国人捕虜が見た大東亜戦争下の日本人』の著者デリク・クラークも芝浦で1年ほど働いていた)。
東條首相は、逼迫する戦局の中、何度も芝浦での港湾作業を視察し、日本人作業員を激励したということである。しかも東條首相は馬に乗ってやってくるのだという。
以下は『東京港史 第3巻 回顧』収録の「〈座談会〉東京港の回顧」から。
高嶋(司会) 例えば太平洋戦争が昭和16年に起こり、それから昭和20年の終戦がありました。この4年間というのはどういう動きだったのですか。全部軍需物資なのか、普通の一般の貨物があったのかどうかなどを知りたいのですが。
芦沢一吉(大東運輸相談役)
一般貨物です。商船に積む食料その他もありました。当時応召者が多く、働き手は不足していました。
東條大将が馬に乗って時々突然芝浦へ見に来ましたよ。「どうだ、物はあるか」とか言ってね。
軍手をくれたり足袋をくれたりして激励にきたわけです。
港から出ていった軍用船がどんどん沈められますから、港湾荷役を大いに能率をあげてもらわなければ困るというわけです。
ものが足りなければ補給するぞというようなことで、馬に乗って芝浦にちょいちょい見に来ました。
そのとき軍で使うものも食料ももちろん、いろんなものが国内で動いたわけです、東京へも揚がったわけです。
このように、東條首相が馬に乗ってあちこち激励に訪問したというのは有名な話らしく、『画報躍進之日本』昭和17年1月号に、その様子が「東條さんの街の政治」というタイトルで紹介されている。その写真雑誌の表紙が、靖国神社の神門、第二鳥居を背景に颯爽と馬に跨がる東條首相だ。
![]() 「靖国神社社頭の東條首相」 |
以下はその記事の内容である。
一億一心、国民総進軍態勢へと臨時議会の開かれる十一月十六日の朝霧をついて、あすの歴史的施政方針演説を前にして、内外の視聴を一身に浴びた東條首相は愛馬菊網号に跨って靖国神社に参拝し護国の英霊に額(ぬかず)いたその帰り道、街の商店に立寄り、又は国民学校生徒に話しかけ、消防署の視察をし、民意をきき、官吏の言葉をきく陸相であり、内相である東條首相の朝はすがすがしい街の政治からはじまるのだ。
東條さんは十五日遅くまで首相官邸に臨時議会に望む想を練っていたが、十六日の朝はちゃんと五時三十分に床を離れた。六時五十分、鼠色の乗馬服にソフトの軽装の総理は愛馬菊網号に跨って旭光と朝靄を切って並足から速足に議事堂を横目に驀(まっしぐ)ら。
それから八時十五分官邸に帰った。内濠一周の朝の騎乗は一時間二五分。『やあ御苦労』と手綱を馬丁にあずけて門に入った後姿には断固所信を実行する逞しい決意が燃えていた。
![]() 議事堂前を行く東條首相 |
![]() |
商店のお内儀(おかみ)さんと時局問答
『お早う、商売はうまく行っているかね』
まず馬首をとどめたのは麹町四丁目水洗器具商前田商店の店先、ためらい勝ちに応えるお内儀さんの喜代さんに、不足勝ちな品物も代用品を使うようにと、やさしく言葉を残して、東條さんの先ず民情視察であった。
![]() |
国民学校のお嬢さんたちを愛撫
遊就館前で下馬した東條さんは折から境内の落葉掃きに余念のない牛込区北町愛日国民学校のお嬢さんたちに、
『おお毎朝来ているのか、年はいくつ‥‥』
と優しい言葉をかけながら拝殿にすすみ、鞭と帽子を傍らにして、柏手二ツ、みじろぎもせず長い黙祷であった。
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丸の内消防署の望楼から
馬蹄は再びアスファルト道路を軍人会館前、眼に止まった大手町の丸の内消防署、ツカツカとはいった東條さんは内城署長の出迎える暇もなく忽ち鉄梯子を攀(よ)じて四階の火見台に上ってしまった。署員への細かい質問も次から次へ、それから署内を見学して外に出た。恐らく帝都防衛の感想が浮かんだのであろう。
![]() |
小僧さんに職域奉公を訊く
伝書鳩の練習に行く鳩屋の小僧さんをめつけた東條さんは、
『どうだ精が出るかね‥』
と小僧さんの職域奉公振りを、やさしく訊ねた。
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警視庁救急車本部で
救急車本部に来た東條さんは、早速に署員に細々と質問し、市民の安全に就いて熱心さを示して帰った。
これらの写真が撮影されたのは、日米開戦約3週間前の昭和16年11月16日。すでに日米交渉が決裂した場合の武力行使は決定されており、10日後に南雲機動部隊が単冠湾から真珠湾を目指して出港、という状況にあった。東條首相にかかる精神的重圧は尋常なものではなかったろうと思われるが、そのような心のうちを表に出さず、馬に乗って気さくに国民に声を掛けていたのである。
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