昔の芝浦はこんなにすごいところだった(その2)港をめぐる横浜対東京の抗争
- 2019/01/02
- 14:12
![]() 竹芝埠頭側から撮影された日の出埠頭。 |
前回は、昭和初期の芝浦が若い衆のケンカが絶えないところだったという話をしたが、さらにさかのぼって大正時代、芝浦が本格的な港として稼働し始める頃の話である。今回はヤクザの出入り。
芝浦がまだ小舟しか利用できなかった頃、東京横浜間の輸送は艀と曳船で行われていた。しかしその回漕費だけでなく、多摩川河口の三角波による積荷傷害や、東風が吹く季節には輸送に1週間もかかるという問題があった。
それで、近海郵船(日本郵船から内航路を分離独立)は、内航船の芝浦入港を実現しようとし、東京市もそれを後押しした。近海郵船は芝浦での港湾労働を、付き合いの古い横浜の本間組に依頼したが、採算が取れぬと本間組はそれを断ってきた。近海郵船はやむなく、芝浦の荒川組に仕事を依頼、荒川組は仲仕(なかし…港湾労働者)部屋をつくって協力することとなった。
以下は『東京港史第3巻 回顧』に掲載された、元近海郵船社長伊藤定治氏の文章であるが、当時の芝浦の雰囲気が伝わってくる。
あまり短時日に芝浦方に組織ができたので本間組は驚いた。このぶんで固まると今度芝浦入港が増加した場合、郵船多年の請負者をもって任じてきた本間組が東京に手が出せぬことになるというので、いくども評議した結果、結局前言を取消し(近海汽船)東京支店の要望に応ずるといってきた。
今度は前にあれほど念をおしてあるし、また既に芝浦に部屋をつくったから、折角だがこちらから応じかねると断った。
そこで本間組は林支店長に直接相談したいと電話で予告し、その日の午後2時、東京駅から約30名が揃いのはっぴにゴム底たびで隊伍を整えて、箱崎町(日本橋)までデモンストレーションをして来た。こちらは京浜艀の内部から先触れがあったので、あらかじめ承知していた。当時としては珍しいので道行く人はなにごとならんと眼を見張った。
そこで、東京支店は協議して、老体の支店長は応接間の事務室に面したドアのわきに小さなテーブルを置いて対談し、万一暴力沙汰になれば支店長はテーブルを突き飛ばしてのがれる、その入口には、若い社員連中を配置し、また一方、玄関のドアにも外側にも社員を配置して、いざという時は閉めて缶詰にするという計画であった。
10坪ほどの応接間にギッシリ入った彼らは、林支店長としだいに声高に争ったが、老練な支店長は機を見て、「それでは失礼」とサッと外に出て通用門から自動車で引揚げてしまった。
要領を得ずに横浜へ帰った一行は、今度は実力をもって芝浦の仲仕部屋を一掃してしまうと、不穏の空気を示してきたので、東京方は佃政(つくまさ)という当時名うての大親分へ相談を持ち込んだから、ことはますます大きくなってきた。佃政は先頭に立って横浜方の襲撃を迎え討つと称し、芝の露月町あたりの古道具屋から、槍やだんびら(太刀)を買い込んだという。
横浜方はひそかに竹槍をつくっているとの情報が入った。しかもそれは小笠原航路の客船が入港するという前日であった。私は荷役担当者とともに愛宕警察署に赴いて善処方を願い出た。警察では時をうつさず芝浦の仲仕部屋から荷馬車に凶器を押収してきた。また神奈川県警察署は、本間組の仲仕部屋から竹槍200本を押収してようやくことなきを得た。
それでも芝浦方に急進・保守両派の争いから1人犠牲者を出したのは遺憾であった。
こうして大正12年の春、航洋客船の第一船が水陸両警察監視のもとに入港して、いかりをおろし万歳の声が浜離宮にこだました。常に政治論争の種となっていた芝浦にも船が入るという画期的な自体を解決し、内航海運の一大朗報として伝えられた。
文中の佃政一家は、稲川会の二次団体として今もある。
その後、東京港が開港(外国航路が開通)したのは昭和16年で、かなりの時間を要している。横浜港をもつ横浜市が猛烈に反対したからであった。政府は東京港開港のために横浜市に配慮して説得する必要があり、横浜港の補助港という位置付けでやっと開港することができた。東京港は満州、中国向けに限られることになった。戦前も、一地方自治体がかなりの力をもっていたことがわかる話である。
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