まるでアパッチ野球軍…昔の芝浦はすごいところだった
- 2019/01/01
- 08:52
『英国人捕虜が見た大東亜戦争下の日本人』の著者デリク・クラークは、日本には1年8ヶ月ほどいたが、最後の1年は芝浦で労働していた。芝浦というのは芝浦駅(貨物専用駅)があった日の出埠頭周辺のことである。
現在、水上バスや東京港を眺めるクルーズ船が発着する日の出埠頭は、高層ビル群にレインボーブリッジなど東京港の美しい景色を構成する一要素となっている。
しかしそこで昔、外国人捕虜たちが労働していたことを知る日本人はほとんどいない。
クラークの著書の翻訳にあたって、捕虜たちが働いていた芝浦というのはどういうところだったのか、詳しく調べた。それについては訳注に書いたが、ここでは本には書けなかったことを紹介しようと思う。
■まるでアパッチ野球軍
昔の芝浦は、今とは全く対照的な、男たちがケンカに明け暮れる、アパッチ野球軍か、男ドアホウ甲子園、群龍伝を想起させるようなところだった。
以下の文章は、東港サービス(株)代表取締役社長の佐久間松雄氏が、『東京港史第三巻 回顧』に寄稿したものである。
登場人物の説明がないと内容が伝わらないと思うので、最初に書いておく。
阿部重作
昭和23年、住吉一家三代目を継承。住吉一家を中心として、関東の博徒・的屋・愚連隊28団体を連合、「港会」(のちの住吉会)を結成。
新田新作
生井一家貸元で関東国粋会副幹事長の子分、国粋会系「新田組」組長。新田建設社長。昭和25年東京大空襲で焼失した明治座を復興し社長となる。力道山の後援者。昭和28年力道山らと日本プロレスリング協会設立に参画し理事長となり、プロレス興隆の基礎を築く。
昭和初期の芝浦周辺
昭和の初めですが芝浦周辺はすごいところでした。
ここでは野球を毎週やってました。今はもう亡くなられましたけれど、私の応援団長が安倍重作さんなんですよ。
それから、「コメット」という月島のチームがありまして、そこの応援団長が終戦後明治座の社長の新田シンサクさんでした。
それで、私の投げるボールをストライクにとらないと、阿部重作さんがバットを持って審判を引っぱたくんですよ。
新田さんは深川だとか月島の若者のリーダーですから、向こうもまた出て、けんかをやるわけですよ。
野球なんかやってられないんです。すごいところでしたよ(笑)。
芝浦に球場があったのは昭和7、8年ですかね。とにかく戦前です。
あとになってから、新田シンサクさんと阿部重作さんが兄弟分になって、お互いに仲良くしていました。
私が軍隊から帰ってきたらすぐ阿部重作さんが「松っちゃん、ちょっと顔貸してくれ」と言うから、「何だい」って言ったら、「おれ、金要るんだけど、一緒に行ってくれ」っていって、明治座に行きましてね。
なんでこんなところに行くのかなと思ったら、新田シンサクさんに、「ちょっと200万円貸してくれ」って、当時の200万円は大変ですよ。
新田さんが「兄貴、この間100万円持っていったばっかりじゃねえか」なんて言っているんですよ。
「いや、松っちゃんが軍隊から帰ってきて、うちもねえんだから、おれ、面倒見るんだから、出せや」って言うんですよ。
「しようがねえなあ」って言って出してくれたんですが、こっちに一銭もくれないのですね(笑)。だしに使われたのですね。
そしたら、豊登っていう、相撲取りでプロレスをやった人がいたでしょう、あの人が電信柱を1本担いで歩いているのですよ。すごい人でしたよ。
そういう時代ですからね。芝浦では朝晩とにかく喧嘩ばっかりでしたよ。
(中略)
まあ、時代も変わりました。芝浦のこの辺も海苔がいっぱい採れて、築地市場に行く船の通れる道は10mぐらいしかなかったのです。
それ以外はみんな海の中を歩けたのですよ。
さらりとすごい話を書いているな、と思った。
芝浦球場の話が出てくるが、調べてみたら、日本初のプロ野球球団、日本運動協会の本拠地で、1921年から1923年の関東大震災まであったそうだ。場所は日の出埠頭のすぐ南にある芝浦埠頭。佐久間氏たちが野球をしていたのもこの芝浦埠頭の空き地であろう。
昔の芝浦の話はまだ続きます。
現在、水上バスや東京港を眺めるクルーズ船が発着する日の出埠頭は、高層ビル群にレインボーブリッジなど東京港の美しい景色を構成する一要素となっている。
しかしそこで昔、外国人捕虜たちが労働していたことを知る日本人はほとんどいない。
![]() 日の出埠頭から撮影。手前がクルーズ船モデルナの上部。 |
![]() 日の出埠頭周辺 |
![]() 日の出埠頭は東京タワー左側の海沿いのあたりにある |
クラークの著書の翻訳にあたって、捕虜たちが働いていた芝浦というのはどういうところだったのか、詳しく調べた。それについては訳注に書いたが、ここでは本には書けなかったことを紹介しようと思う。
■まるでアパッチ野球軍
昔の芝浦は、今とは全く対照的な、男たちがケンカに明け暮れる、アパッチ野球軍か、男ドアホウ甲子園、群龍伝を想起させるようなところだった。
以下の文章は、東港サービス(株)代表取締役社長の佐久間松雄氏が、『東京港史第三巻 回顧』に寄稿したものである。
登場人物の説明がないと内容が伝わらないと思うので、最初に書いておく。
阿部重作
昭和23年、住吉一家三代目を継承。住吉一家を中心として、関東の博徒・的屋・愚連隊28団体を連合、「港会」(のちの住吉会)を結成。
新田新作
生井一家貸元で関東国粋会副幹事長の子分、国粋会系「新田組」組長。新田建設社長。昭和25年東京大空襲で焼失した明治座を復興し社長となる。力道山の後援者。昭和28年力道山らと日本プロレスリング協会設立に参画し理事長となり、プロレス興隆の基礎を築く。
昭和初期の芝浦周辺
昭和の初めですが芝浦周辺はすごいところでした。
ここでは野球を毎週やってました。今はもう亡くなられましたけれど、私の応援団長が安倍重作さんなんですよ。
それから、「コメット」という月島のチームがありまして、そこの応援団長が終戦後明治座の社長の新田シンサクさんでした。
それで、私の投げるボールをストライクにとらないと、阿部重作さんがバットを持って審判を引っぱたくんですよ。
新田さんは深川だとか月島の若者のリーダーですから、向こうもまた出て、けんかをやるわけですよ。
野球なんかやってられないんです。すごいところでしたよ(笑)。
芝浦に球場があったのは昭和7、8年ですかね。とにかく戦前です。
あとになってから、新田シンサクさんと阿部重作さんが兄弟分になって、お互いに仲良くしていました。
私が軍隊から帰ってきたらすぐ阿部重作さんが「松っちゃん、ちょっと顔貸してくれ」と言うから、「何だい」って言ったら、「おれ、金要るんだけど、一緒に行ってくれ」っていって、明治座に行きましてね。
なんでこんなところに行くのかなと思ったら、新田シンサクさんに、「ちょっと200万円貸してくれ」って、当時の200万円は大変ですよ。
新田さんが「兄貴、この間100万円持っていったばっかりじゃねえか」なんて言っているんですよ。
「いや、松っちゃんが軍隊から帰ってきて、うちもねえんだから、おれ、面倒見るんだから、出せや」って言うんですよ。
「しようがねえなあ」って言って出してくれたんですが、こっちに一銭もくれないのですね(笑)。だしに使われたのですね。
そしたら、豊登っていう、相撲取りでプロレスをやった人がいたでしょう、あの人が電信柱を1本担いで歩いているのですよ。すごい人でしたよ。
そういう時代ですからね。芝浦では朝晩とにかく喧嘩ばっかりでしたよ。
(中略)
まあ、時代も変わりました。芝浦のこの辺も海苔がいっぱい採れて、築地市場に行く船の通れる道は10mぐらいしかなかったのです。
それ以外はみんな海の中を歩けたのですよ。
さらりとすごい話を書いているな、と思った。
芝浦球場の話が出てくるが、調べてみたら、日本初のプロ野球球団、日本運動協会の本拠地で、1921年から1923年の関東大震災まであったそうだ。場所は日の出埠頭のすぐ南にある芝浦埠頭。佐久間氏たちが野球をしていたのもこの芝浦埠頭の空き地であろう。
昔の芝浦の話はまだ続きます。
![]() 芝浦埠頭にあった芝浦球場。のちに芝浦埠頭はさらに拡張されることになる。 |
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