終戦後、米国人捕虜から病院長に手渡された感謝状
- 2018/08/15
- 15:23
ヒレンブラントが「アンブロークン」で描いたように、日本軍の捕虜はひどい虐待を受けていた、という認識は今や世界の常識となっている。
確かに理不尽でひどい虐待はあったし、盗みを働いた捕虜などに対し、体罰を加えることもあった。体罰を加えるだけの理由もあり、日本軍の中ではそれは一般的なことではあったが、連合軍捕虜にとっては屈辱であり、深い恨みとして残るものであった。
それとは対照的に、捕虜を極めて人道的に扱った日本人が少なからずいたこともまた事実である。
残念ながらそういう事実はあまり一般には知られていない。
国会図書館デジタルコレクションを検索していたら、そういう事例がひとつ目に止まった。
大阪俘虜収容所広畑分所(現・姫路市広畑区。使役企業:日本製鉄広畑製鉄所)にあった病院の病院長に対し、捕虜軍医が送った感謝状である。
以下はその全文である。読みやすくするために若干修正してある。
法廷証番号3122: 1945年8月24日広畑製鉄所長宛シドニー大尉書翰
薬品贈呈書(訳文)
昭和二十年八月二十四日 米国陸軍軍医大尉
シドニー・イー・サイド(SIDNEY E. SEID)
日本広畑製鉄病院並びに職員殿
一、
我々は米国に帰国することになったので米国赤十字薬品が必要以上にあることになりました。
私は赤十字は国籍の区別をしないことを知っており、すべての病人は同様であると考えます。
それゆえ私は我々に必要でない薬品は、原則として米国俘虜に供給されたものでありますが、貴方に贈るよう私に要望するであろうと考えます。
それゆえなにとぞこの品を受けた貴方が最上と考えるようご使用ください。
二、
実際同じ人道の精神において、我々が今貴方に贈る以上のことを、貴方は我々にしてくれました。
我々はこれ以上贈る物がないのは残念ですが、我々が贈る精神を汲んでこれをお受け取りください。
この品は貴方の必要に比べれば少量ですが、少しは足しになると思います。
三、
平和の将来において成功と幸福を貴方に希望します。
文書成立に関する証明書
自分廣田照輝は、昭和十三年八月以降現在に至るまで引続き、日本製鉄株式会社広畑製鉄所病院長の職にあるものでありますが、ここに添付した英文により書かれた全文一頁の書面は、その日付の当時、大阪俘虜収容所広畑分所に収容の俘虜より自分に手渡された感謝状に相違ありません。
これを証明します。
昭和二十二年五月十四日
於 兵庫県姫路市飾磨区英賀甲一六二五番地
日本製鉄株式会社広畑製鉄所
病院長 廣田照輝
右署名捺印は自分の面前で病院長がなされたるものなることを証明致します。
同日於同所
上塚萬嘉男
シドニー軍医は「我々が今貴方に贈る以上のことを、貴方は我々にしてくれました」と語っている。
具体的にどういうことがあったのかはわからないが、この感謝状の文面から察するに廣田病院長は、捕虜のために相当尽力したことは間違いない。
廣田照輝病院長は岡山医学専門学校を卒業後、医師となり、医専から医科大学に昇格した岡山医科大学に再度入学し、昭和2年に卒業している。検索してわかったのはそこまでである。
廣田照輝氏の書いた論文には以下のようなものがあった。
廣田照輝(1934)「溶血性補體ノ研究補遺(補體ノ限外濾過ニ就テ)」, 『岡山医学会雑誌』46(2), pp218-238, 岡山医学会.
廣田照輝(1935)「血清類脂體ノ免疫學的研究(第1報)血清類脂體免疫ニヨル抗體ノ生産ニ就テ」, 『岡山医学会雑誌』47(4), pp1013-1042, 岡山医学会.
廣田照輝(1935)「細菌殊ニ大腸菌類脂體ノ免疫學的研究」, 『岡山医学会雑誌』47(7), pp1836-1865, 岡山医学会.
廣田照輝(1935)「血清類脂體ノ免疫學的研究(第2報)血清類脂體ノ特異性ニ就テ」, 『岡山医学会雑誌』47(8), pp2051-2071, 岡山医学会.
廣田照輝(1937)「日本建壁竝ニ床ノ保温ニ關スル研究補遺」, 『岡山医学会雑誌』49(9), pp1782-1802, 岡山医学会.
廣田照輝(1938)「沈降反應ニ於ケル抗原抗體ノ量的關係ニ就テ(最適反應量ト結合帯トノ關係)」, 『岡山医学会雑誌』50(1), pp1-37, 岡山医学会.
確かに理不尽でひどい虐待はあったし、盗みを働いた捕虜などに対し、体罰を加えることもあった。体罰を加えるだけの理由もあり、日本軍の中ではそれは一般的なことではあったが、連合軍捕虜にとっては屈辱であり、深い恨みとして残るものであった。
それとは対照的に、捕虜を極めて人道的に扱った日本人が少なからずいたこともまた事実である。
残念ながらそういう事実はあまり一般には知られていない。
国会図書館デジタルコレクションを検索していたら、そういう事例がひとつ目に止まった。
大阪俘虜収容所広畑分所(現・姫路市広畑区。使役企業:日本製鉄広畑製鉄所)にあった病院の病院長に対し、捕虜軍医が送った感謝状である。
以下はその全文である。読みやすくするために若干修正してある。
法廷証番号3122: 1945年8月24日広畑製鉄所長宛シドニー大尉書翰
薬品贈呈書(訳文)
昭和二十年八月二十四日 米国陸軍軍医大尉
シドニー・イー・サイド(SIDNEY E. SEID)
日本広畑製鉄病院並びに職員殿
一、
我々は米国に帰国することになったので米国赤十字薬品が必要以上にあることになりました。
私は赤十字は国籍の区別をしないことを知っており、すべての病人は同様であると考えます。
それゆえ私は我々に必要でない薬品は、原則として米国俘虜に供給されたものでありますが、貴方に贈るよう私に要望するであろうと考えます。
それゆえなにとぞこの品を受けた貴方が最上と考えるようご使用ください。
二、
実際同じ人道の精神において、我々が今貴方に贈る以上のことを、貴方は我々にしてくれました。
我々はこれ以上贈る物がないのは残念ですが、我々が贈る精神を汲んでこれをお受け取りください。
この品は貴方の必要に比べれば少量ですが、少しは足しになると思います。
三、
平和の将来において成功と幸福を貴方に希望します。
文書成立に関する証明書
自分廣田照輝は、昭和十三年八月以降現在に至るまで引続き、日本製鉄株式会社広畑製鉄所病院長の職にあるものでありますが、ここに添付した英文により書かれた全文一頁の書面は、その日付の当時、大阪俘虜収容所広畑分所に収容の俘虜より自分に手渡された感謝状に相違ありません。
これを証明します。
昭和二十二年五月十四日
於 兵庫県姫路市飾磨区英賀甲一六二五番地
日本製鉄株式会社広畑製鉄所
病院長 廣田照輝
右署名捺印は自分の面前で病院長がなされたるものなることを証明致します。
同日於同所
上塚萬嘉男
シドニー軍医は「我々が今貴方に贈る以上のことを、貴方は我々にしてくれました」と語っている。
具体的にどういうことがあったのかはわからないが、この感謝状の文面から察するに廣田病院長は、捕虜のために相当尽力したことは間違いない。
![]() 大阪俘虜収容所広畑分所 |
廣田照輝病院長は岡山医学専門学校を卒業後、医師となり、医専から医科大学に昇格した岡山医科大学に再度入学し、昭和2年に卒業している。検索してわかったのはそこまでである。
廣田照輝氏の書いた論文には以下のようなものがあった。
廣田照輝(1934)「溶血性補體ノ研究補遺(補體ノ限外濾過ニ就テ)」, 『岡山医学会雑誌』46(2), pp218-238, 岡山医学会.
廣田照輝(1935)「血清類脂體ノ免疫學的研究(第1報)血清類脂體免疫ニヨル抗體ノ生産ニ就テ」, 『岡山医学会雑誌』47(4), pp1013-1042, 岡山医学会.
廣田照輝(1935)「細菌殊ニ大腸菌類脂體ノ免疫學的研究」, 『岡山医学会雑誌』47(7), pp1836-1865, 岡山医学会.
廣田照輝(1935)「血清類脂體ノ免疫學的研究(第2報)血清類脂體ノ特異性ニ就テ」, 『岡山医学会雑誌』47(8), pp2051-2071, 岡山医学会.
廣田照輝(1937)「日本建壁竝ニ床ノ保温ニ關スル研究補遺」, 『岡山医学会雑誌』49(9), pp1782-1802, 岡山医学会.
廣田照輝(1938)「沈降反應ニ於ケル抗原抗體ノ量的關係ニ就テ(最適反應量ト結合帯トノ關係)」, 『岡山医学会雑誌』50(1), pp1-37, 岡山医学会.