 大森捕虜収容所での記念撮影。渡邊伍長と捕虜たち。 後列の黒い海軍帽を被っているのが、「おかわいそうに」の著者、ルイス・ブッシュ英海軍中尉。 |
http://tokumei10.blogspot.jp/2014/12/wiki.html
上記のサイトに渡邊睦裕軍曹の手記と思われるものが掲載されていたので、そのまま転載する。
不氣味なブラックリスト 昭和二十年、日本が敗戰の泥沼に一歩一歩沈みゆく頃、こゝ大森俘虜収容所では、連日のB29の飛來に俘虜たちは終戰の近きを知ってか、その態度も日増しに傲慢になってきた。
ある日のことであった。所長から俘虜たちの私物検査を命ぜられた私は、英軍の一老將校が寝臺のマットに何やら縫いこんでひそませているのを発見した。その書類を取り出してみた時、彼はなんとも云えない薄氣味の惡い冷笑を私に浴びせかけた。それは日本軍将兵軍属に関する細部に亙るブラック・リストであった。
私は陸軍軍曹であった。當時俘虜はジュネーヴ條約に因って我が軍に保護収容されていた。國籍も種々雜多であったが主に英、米俘虜を収容し、階級も將校、下士官、兵とそして民間人も少し居た。私は之等の俘虜達と起居を共にしていた。彼等の數は多少の移動はあったが常時六、七百名位であったと思う。
下士官、兵隊は幾つかのグループに分れ毎朝トラックで夫々の仕事場へ運ばれ労働に従事していた。將校達は所内で輕作業と農園造りをやったり讀書とかトランプ遊びで時を費やしていた。
私は彼等の勞働關係に関する殆ど全般にわたる業務を課せられ、毎朝出てゆく彼等の點檢や監督と日本看視員に對する指導に當った。それが濟むと手紙の檢閲や情報の収集や俘虜連絡將校への命令傳達などに没頭していた。
三年に亙る勤務の間、私は直接これら俘虜達との折衝に當る者として彼等からは強大な権力者として見做される立場にあった。どんな些細なことでも私の耳にはいり目にはいった。言語、習慣の異なった敵國人との間に当然起るべくして起った摩擦もあった。私達も軍隊で命令を受け動いている以上、より多くの制約を受け、規律を維持するに必要な嚴格さも要求せられた。
また私に突飛な甘言を呈する者もいた。日本は必らず負けるのだから自分に條件のよい待遇を與えて呉れゝば、アメリカで生活させてやるというような種類であった。
それから数カ月経たずして終戰となった。
俘虜たちのガラスのような目は強く私たちの心を射るようであった。そうした収容所勤務の者たちは死の影におびやかされ、自分たちは戰犯者として指名裁判にかけられるという噂でもちきりになった。
自由を奪われ敵國に俘囚の身となった彼ら!その彼らはいまや勝者の立場に逆轉したのだ。彼らは憎惡と怨恨のまじった目付で顔面には殺氣がみなぎってきた。彼らは屹度復讐するにちがいない。それとともに私たちは死の恐怖にとりつかれてきた。
戰いは負けたのだ。凡ては零だ。上層部は愚か一兵卒に至る迄彼等は容赦しないだろう。私達の不安と恐怖が現実の姿となってくるのも間近いことに違いないとも信じた。私達の勤務の性質から云っても到底極刑は免れ得ないだろう。そう考えると私は絶對に彼らに捕われ、戰犯裁判に引張り出されるのはごめん蒙りたいと決心した。
逃亡するのだ!時が解決するまで逃げるのだ。これが不法の裁判をのがれる唯一の方法でもあると思った。逃げとおせるかどうか疑問を抱く餘裕も判斷も出來ないまゝに、たゞ一途に逃げたいと居ても立っても居れない状態だった。俘虜達の冷たい目にとり圍まれたあの日は全く地獄の一日だった。夜の點呼も早々に切り上げて寢苦しい、味わったことのない一夜が明けた。二、三日經って収容所長の至急命令で、東部二部隊(近衛歩兵第一聯隊)へ原隊復歸することになった。部隊の上空にはアメリカ戦闘機が心憎いまでに亂舞していた。
私は腹が立つばかりで日本軍隊の崩壊を前にしては、誰も私を保護し誰をも信頼することが出來ないことを悟った。二週間後になって私は、母が鑛山事業をやっていたので、産業再建という名目で復員出来た。
やっとの思いで疎開地の小さな町日下部へ歸宅を許され飛ぶようにして歸っていった。
母親と妹が快く迎え入れてくれた。久し振りでの家族との生活で、心の温まる思いをしたが、何日とも續かないだろうこの生活も二三日で諦めて家を飛び出ることにした。
母には友人の墓参りに行くと稱していたが、妹には内々危険な身であることを知らせて置いた。その晩、身の廻り品と金を若干用意して家を去った。出る間際、妹が何を思ったのかトランプを手渡してくれた。私は獨りで占うトランプ遊びが大好きだった。戀占いなど他人によくしてやったが、これがまた奇妙に當った。じっとみつめた瞳が、私の運命を豫感したかのようにうるんでいた。
えゝい、まゝよ!と日下部驛から出る貨物列車に身を託した。
眞暗な貨物列車に寢轉んでこの車の方向が運命を決するのだと獨りつぶやいた。自分で豫測も判斷も出來ないこのような事態にあって、將来のことを今からクヨクヨを神經を尖らせても如何に無駄であるかを知った。出たとこ勝負で身を處そう。何とかなるだろう。逃亡というサイコロは既に振られたのだ。こういう考え方がやっと私に落着きを取り戻してくれた。
私は何の理由もなくこの車が遠い見知らぬ寒村の驛に運んでくれることを希望し、期待していた。ところが私を乗せた列車は二つめの驛で停車し動こうとしなかった。降り立った處は甲府驛で、終着になっていた。軽い失望を感じたが、その晩は驛で終戰の混雜した人達にまじって睡ってしまった。翌朝あてのないまゝ甲府の街をブラついていた。正午のラジオ・ニュースで東條以下七名を戰犯容疑者として逮捕する旨のニュースを耳にした。その七名の最後に私が指名されていた。豫想はしていたがまさか東條大將と同時に指名されようとは思ってもいなかった。
このことは確定的に死を宣告されたも同様なもので、恐怖のドン底につき落とされた感じがした。またその反面この決定的な發表で、私は今迄の得體の知れぬ不安と恐怖の状態から解放される自分を知った。今後これからの行動の一切は自分獨自の判断と計畫が成功・不成功の鍵となるのだと思うと一種の安堵感にも似た決心と闘爭心をもたせた。
死の暗い影 「沈黙と忍從」私はこの掟を破らないよう心に誓つた。さうでないと到底逃亡に成功しないことを知つていた。それには時間だ。もろもろの人間の業を呑みこみ、押流す、時の經過が解決もし、解答もするだらうと思つた。そしてこの不可解な時の流れが私の唯一の見方であると信じることにした。
目先の計畫を立てるため、最初に人里離れた温泉宿に身を落着けることに決め、地圖を擴げてみた。長野縣の萬座温泉が目についた。温泉宿や素朴な農家の人達で案外混雜していた。こゝでは見知らぬ人達がすぐ氣安くなり、隣人同士の氣持になつた。これらの人達には終戰の悲惨な氣持も深刻な表情もなく、他人事のように敗戰の事柄を語り合つていた。私の死の影もこゝでは随分薄らぎ、緊張した感情をやわらげてくれた。
そしてこの人達の善意にすがつて農家にはいりこもうと考えついた。私は逃亡者として第二の男をつくることにし、姓名を變え、ここで始めて生きるための計算をやり始めた。姓名は平凡なものに限ると思つて、「大田三郎」と名付けることにした。
私は東京の戰災者になりすました。身寄りのない獨り者で、ちよつとは学問したことを云いふらし宿の評判をとつた。次に金持らしい人の好さそうな隱居さんに殊更近づき話しかけた。隱居は私の體格に目をつけ、「お前さんは俵の一俵か二俵かつげやすかい、お百姓仕事は力が要りやしてナ」と云つたりした。幸い體格も五尺六寸十八貫あつてラグビーの選手もしたことのある私が、力持であることを難なく信じてくれた。私は下男として全力を盡すことを條件に、一緒に山を下ることになつた。
そこは長野縣の小海線に沿つた小さな町から、山あいを一里ほどはいりこんだ處で、戸数も五、六十戸の部落であつた。家は部落一の物持の農家で、小さな製粉機械もあつた。
人手も必要だつたし、下男の一人や二人置いても何の不都合も感じない、どつしりとした家構えであつた。私は當分、食と住との心配から脫れることの出来ることを心から喜んだ。
この隱居は今では亡き人になつたが、私にとつては終生忘れ得ぬ老人で、人を疑うことを知らない善意に滿ちあふれた、温情のあふるる人柄であつた。何か考え事をする時いつも義齒をクルックルッといわせていた。そして無駄口を叩かず、人の顔を正面からじいつとみて話しをした。年の頃は六十七か八で、でつぷり太つていて、腕などは何かの木の根のように太かつた。土に長年親しんできた人特有の頑固さと意地を持つていた。
食と住を得た安心感で幾日かが過ぎた。ほつとする間もなく、次に迫つてきたのは精神的な重荷と壓迫であつた。それは私だけが獨り自由な身で大氣を吸つていることのうしろめたさであつた。勞苦を共にした戰友や上官の辿るべき運命を想つた時、共に出頭すべきでないかという問題であつた。そのことが死の刑罰よりも深く、私の心を責めた。
追われる者特有の、犯罪者的心理と罪悪感とでもいえようか。戰爭は既に終つたのに、形のない、なにものかと闘わねばならぬ自分の境遇にひどい悲しみと憤りを覺えた。
そうして私は幾分の自虐の氣持から日中の勞働に人一倍働き、クタクタになるまで肉體をこき使うことにした。このことは案外効を奏し、夜は深く安らかな眠りを與えてくれた。私は生れて始めて藁ブトンの温かさを知り、農家の單調で平和な、そして素朴な生活を味わい、知つたのであつた。
一カ月というものは無我夢中で何のこともなく過したが、念頭からは死の暗い影をどうしても拂い切れなかつた。無口になり何かにとりつかれたように、考え込んでいる私の姿におかみさんがいつしか不審の念を抱き、不安な眼で眺めていることに氣がついた。
私は偽りの姿を一日も早く告白したい氣持にかられた。隱居の善意と同情にすがつてみれば成功するかも知れないと、ある晩、彼にそつと告白したのであつた。
老人は爐邊の殘火をみつめながら、黙つて聴いてくれた。例の義齒をクルックルッと云わせるだけであつた。別段愕きの色も現わさず居てもよいとも云わなければどこかへ行つてくれとも云わなかつた。たゞ「わつしは小さい時から口は禍のもとだとよく聞かされやしたが、輕くすべらすでネェ」と云つたきり、そつぽをむいてしまつた。
嚴しい追及の手 この邉鄙で平和な村にもC級戰犯裁判の模様をラジオで放送する日がやつて來た。
各人の罪状をこまかに語る日が何日となく続いた。私は無表情な顔でニュースを聽きながらも、家人の様子がどういう風に變つてゆくかを細心の注意でみていた。
知つてか知らずか、家人は私が近くに居る時は氣を利かすようにスヰッチを切るとか、素知らぬ顔で雜用を足していた。
私もこれに對し何の辯解も意見もはさまず、無視したような態度ですましていたが、逃亡者としての、暗い惨めな恐怖に戰く自己をみせつけられた。それに毎日の新聞は人類の敵として容赦なく非難し、私の精神をバラバラに嚙みくだき始めた。私はこれに抵抗するほど 强靭な精神力を持ち合わさなかつたが、たゞ私達だけのことは私達だけが一番よく知つているのだと、諦めともなぐさめともつかぬことを、自分に云い聞かせてこれらの人達に合掌した。
そしてこれらの放送や報道からも、私は神の裁きを受けても勝者の裁きには、絶對納得がゆかないぞと叫びたたくもなつた。
ある日、縁側で家人とお晝の雜談をしいる時、村の駐在が廻つて來た。年とつた人の好さそうなお巡りさんであつた。私は始め、戸籍調べかと思つていた。田舎の慣し通り、お茶と香物を添えて出すことにした。
「なあーにね、戰犯ちゅうもんが、まぎれこんでいはしねえかと、この先の開拓團までゆくだニイ」私はさり氣なく「それは御苦勞なこつてすナ」とつぶやくように云つてそつと顔をうかゞつた。「職務とは云いながら、辛うゴワスよ」と云いつ、胸のポケットから三枚の寫眞をとり出して私達に見せた。
その一枚にまぎれもなく私のうすぼんやりとした兵隊姿があつた。が、今の私と似ても似つかぬ寫眞なので、老人やおかみさんすら氣がつかなかつた様子であつた。
まさか當人と話していると氣づかぬこの老巡査は「手配ちゅうのもんは全國的でやしてね、一應行くだけは行かねばなんないでやすよ」と澁い茶をすゝつて煙草に火をつけた。
隱居は相變らずクルックルッと音を立てるだけで眉一つ動かさなかつた。その顔つきはよく奴らが使つていたポーカーフェイスという感じであつた。それから暫く雜談してお巡りさんは「莫迦な戰爭をやりおつたもんですわい」と云いながら、腰を上げ開拓團の方へ行つてしまつた。私はお巡りさんの後ろ姿に、拜みたいような氣持で一杯になつた。
追及の手がこんな邉鄙な村までのびていることを知つて、さすがその晩はよく眠れなかつた。その夜から再び身の切迫した危険を 强く感じ逮捕即ち死という想念にわけもなくとりつかれてしまつた。家人も察したらしく、心配と迷惑な表情で沈み勝ちになつてきていた。
襲い來る郷愁 嚴しい冬も過ぎ、暖かい陽ざしが照り出した頃、この家の若主人が小商賣をし始めたので、これを手傳うことになつた。
それは下町の仕事場で作る革製品の下駄の鼻緒類を、遠くに賣込みに歩く外交の仕事であつた。私は未だ旅をして歩くことには幾分の危険を感じたが、自分の都合ばかり考えることは許されなかつた。リュックに一杯つめて秋田新潟方面の露天商とか下駄屋に卸して歩いた。
人に會う機會も多くなつたので、ヒゲをたて、眼鏡を用いて變装した。私は異つた土地を轉々と歩くことが何となく樂しくなつて來た。
歩き廻つた土地の人々達の聲も色々あつた。「個人の罪にきせるのは氣の毒だ」とか「凡て戰爭が生んだ悲劇だ」とかいう反面「日本軍もひどいことをやつたもんだ」とか非難や懺悔の入りまじつた聲も一杯だつた。その頃の私の心境は、これらの人達に影響されたり支配されたりするほど、弱々しいものではなかつたので、好んでそういう人達の批評や非難を默つて聽くことにしていた。そして刈り取られる雜草も、春になれば萠えだすにきまつているのだとも思つたりした。
こうした話から見知らぬ人達の間で戰犯容疑者が逮捕されてゆく様子をきかされ、警察の活動と状況を知ることが出來た。
私の家族、親戚、知己にどんな壓迫があるかも想像出來たが、獨りの男が生きるか死ぬかの瀬戸際と思つて、暫らくの間目をつぶつて許してくれるように祈つた。
いつの日か屹度、笑顔で暮せる時もあるであろうとはかない希望の灯をもつていたからだ。
しかし家族、知己、のことを想うと、猛烈な郷愁を感じ、一度機會をみて、面會に歸つてみようと心に決めた。
一度そう考えついた時、矢も楯もたまらず家族の近況に接したくなつた。飛んで灯に入る夏の蟲という感じもしなくはなかつたが、捕まつた時は何事も運命だと諦めるサ、と自分に云い聞かせた。
私は獨り寸暇をみてはトランプ占いをして出發の日の吉凶を占つていた。それは淋しい唯一の慰みでもあつたのだ。トランプ占いも吉と出た。
母は事業をやつていた關係で、神戸と長野に家をもつていた。東京にいる時は、いつも姉の家に滞在することになつていたので、姉の家を訪ねることにした。汽車に乘つて僅か五六時間位で懐かしい姉とも對面出來るのだと思うと、今自分が行おうとするこの行爲の危険と冒険に氣がワクワクとした。夜と晝とどちらを選ぶか迷つたが食事時のお晝にすることにした。
電車から降りて約十分位の處だつたが、夏の烈しい陽照りと、一種の興奮で目がくらむような想いをした。幸い、この暑い陽ざかりに近所の人の目をうまく逃れ、門前に立ことが出來た。断わりもなく門を開け部屋にすべり込んだ。母と兄妹が何か話しあつていた處だつた。
視線と視線が瞬間からみあつた。お互い無言でみつめあつた。私は今迄の緊張から急に解かれ、その場にどつと坐り込んでしまつた。勝手口から姉もやつて來た。みながみな、喰い入るような目で私を眺め、生存を知つて心から喜こんでくれ、次から次へと話し合つた。一昨日も四人の刑事がやつて來たこと、未だ隔日に捜しに來ていることを知らされて、自分ながら無謀な行爲であつたことを後悔したが、久し振りで、家族と會えた喜びの方がはるかに大きかつた。
襖一枚が生死の境 兄がたまたま遊びに來ていた處だつたので、家族の大部分と會える好運に惠まれた日だつた。
皆の話から捜査の方法もきびしく、當時は皆が皆生きた心地すらもてなかつたと云い、殊に母親が一番ひどく監視せられ、どこへ行くにも二人の刑事が尾行し、訊問も連日に亙り、或る警察では留置場に一晩閉じ込められ責められたことを聞いた。兄などもM・Pに有無を云わさず、ジープで連行され、二三日家へも歸されず訊問されたりした。以前少しでも私と係合いのあつた者凡てが、訊問詰問されていることが想像出來た。家へ來る手紙は総て検閲濟みとなつていた。或る時などは見知らぬ人を使つて私からの手紙を持つて來たと云つて、下手な芝居を打つたとか・・・
そんなことを話し合つているうち、時計が二時を指した。母が刑事さんはいつも今頃から夕方頃に來ると云つたので、一同の不安が急に湧き出した。當人の私の方が落着いて平然としていた。私は「トランプでは吉と出ていたよ、今日は屹度來ないよ。大丈夫、大丈夫」などと云つていた時、玄関の方で物音がした。お客?いつものお客だ。みながさつと緊張した。茶碗をかたづける者、私の持物を押入れに放り込む者、私はすばやく次の部屋に退避した。其處はお茶をたてる部屋で、小さく區切つてあつて、道具もお茶道具と座ぶとんだけであつた。それに小さな押入れがあつた。私は度胸を決めこんで寢轉つていた。
この部屋まで踏み込んで來られては萬事休す。遂に逮捕されるかと、天井を見上げていた。逃避の緊張感と疲勞感から、一氣に解放される自分を望んでいる姿を發見した。
玄關で、三四人の男聲が家族と挨拶していた。逃亡直後の捜査と違つて、ドカドカ踏込んでくることはしなかつた。一應の挨拶で座敷に通つた。私には手にとるように、次の部屋の聲が聽こえた。「便りが來ないか」とか「家に寄りつかなかつたか」とか「若し出てくれば決して惡いようにはしない」とか勝手なことを銘々がしゃべつていた。母と姉が應待して返答していた。この襖一枚が私の生死の境をしていると實感も湧いて來なかつたが、ふと我に還り、このまゞ發見され逮捕されてゆく姿に氣がつき自分を 强く叱つた。「最後のチャンスまで逃亡するという意志と努力をもつてみたか」「例え隣りに死の神が居ようと、それは彼らの意志であつて決して自分の意志ではないのだ」そうだ、最後の一秒まで逃げるという努力に頭を使つてみよう、と思つた。
この場では唯一つ、押入れに身を隱すこと以外、考えられようもなかつた。隣の氣配を感じながら小刻みに音のしないよう襖を開け始めた。隨分時間をかけたと思つた。半分ほど開いた處で、うまく押入れにはいりこむことが出來た。心臓がドキドキと鳴り、呼吸のきれる音で、手を口に當てたのを覺えている。押入れの戸は開けたまゝだつた。間もなく刑事の一人がお世辭のように「お宅は廣いんですネ」と云つて仕切つてあつた、襖を開けた。私は観念して目をつぶつていた。しばらくして私が押入れに隱れていることも知らず「小綺麗にしていますネ」と云つて襖の閉じる音がした。
私は最後の小さな努力で難を避けられる結果となり、トランプの吉が見事當つたことを喜んだ。
その晩、泊ることを思いとゞめ、家族とも會えて、百萬人の味方を得たような氣持で、再び孤獨な逃亡の世界へ還ることにした。
私は二年後の十月一日午後七時、新宿のあるレストランの一階で家族の者のうち、誰かと會う約束をして闇夜に吸われる如く別れを告げた。
女の愛情もしりぞけて 私は再び鼻緒の外交員に歸つた。だがこの若主人が考えた程、商賣も上手くいかなかつたので、町で喫茶店を開業し今度は喫茶ボーイとして、店を切廻すことゝなつた。脫脂した牛乳にサッカリンで、甘味をつけた飲物だつたが、珍らしかつたので結構よく人もはいつた。私は誠實に甲斐々々しく働いた。
或る日、何を思つたのか、隱居が結婚話をもつて來た。が、現在の身では到底考えられもしなかつたので、その場で斷ることにした。それから會う毎にすゝめるので、私もこの結婚について、一應考える氣にもなつた。しかし、私はこの結婚の責任と重大さを痛感し、自分勝手な理由だけで、承諾するわけにはいかないと思つた。又一方追われる者として明日という日のない男のギリギリのエゴイズムは、女の愛情が私を支え、救う唯一のものであるとも考えた。そしてこゝでも生きたいのだと血の叫びをあげる自分を知つた。
隱居のすゝめるまゝ田舎の風習どおり見合いすることにした。老人の息子が病氣だつたので、その看護に來ている、というのであつた。息子さん見舞かたがた面接することにした。
思いもよらぬ田舎町での見合に、私は少し上氣していたようだつた。彼女はスタンダールか何かの戀愛論を膝の上に擴げて讀んでいた。
私は彼女がどんな姿態で應接するかということより、文學書を讀んでいたことだけが私の心を魅きつけた。彼女と話しているうちに、世帯もちのうまそうなしつかり者という感じを受け、彼女と文學とは縁遠いような氣もしたが、私は夢中になつて、文学に就てのみ話をした。多少とも文學を好む女性ならば屹度、追いつめられた人間のもつ心の動きや苦惱を理解してくれるだろうと、早ゝに判斷したのだつた。
その後この女性は度々、私の働いている店へ遊びに來るようになつた。私はこの結婚に對してもう一人の人間に、不幸をもたらすことのないよう、また自分自分悔恨に身を嚙まれないように、相互の理解と愛情の燃燒をもつ時間が欲しかつたのだが、この女性は両親を說得し承諾を得るよう積極的に、この話をすすめていた。二度、三度と會つているうち、この女性に私は他人に洩らされぬ一身上の秘密と事情があることを遠廻しに打明けることはしたが、すべての告白ということになると、私の生死に係わる秘密をどうしても、打ち明けるだけの勇氣はなかつた。そして力なく私はいつも言つた。「私との結びつきは、貴女を不幸にしても決して幸福にすることは出來ない」と。またそれは人知れぬ日々の勞苦と精神の負擔で屹度貴女を打負かすにきまつているとも、言い放つた。隱居さんの手を離れて、自活の道を早速考えねばならなかつた。この小さな田舎町では就職など凡そ考えられもしなかつた。私は手あたり次第どんな仕事にも、糧を得るために働いた。百姓家をあるいては手傳いをしたり、町の馬喰の手下ともなつて、牛や馬を農家から農家へ運ぶ日雇いもやつた。田舎道を二里も三里も足の遅い牛をひつぱつて歩いた。乳牛の小さいやつなどは、歩くのに本當に手間どり、急に氣の狂つたように跳びはねて、慣れぬ私を愕かすのだつた。また中途で寢込んでしまつて押せども引けども、動こうともしなかつた。
千曲川の畔を牛を追い追い歩く姿は、誰がみても百姓の姿としかうつらなかつたろう。秋晴れの日、淺間山の煙が中空にのぼるのを見て、又夕映えに暮れゆく田園の靜けさに泣きたい程の感動を覺えた。
影のように 家族との約束の日がやつてきた。あの日から數えて二年の月日が經つたのだ。其後の捜査模様と家族の状況を知る喜びと不安とが、いりまじつて車中胸が一杯だつた。このような冒険は、私にとつて遂げられぬ戀人同士の密會のような樂しさを覺えさせ、少しも危険とか恐怖の感じを抱かせなかつた。降り立つてから時間も相當あつたので、新宿の混雜した人の群に身を投じあちこち見て廻つた。定刻十五分前に約束の場に着き、素早く席に視線を投げ一わたり見廻したが、見當らなかつた。來るか來ないか、實に長い時間に思われた。定刻きつかりに、母ともう一人連れ立つた青年が現れた。その青年は見知らぬ人だつたので、私は用心深く母の視線を追つた。母は緊張と興奮で歪んだような顔をしながら、近づいて席に腰を下した。そして口早に青年を紹介してくれた。妹の婚約者だつたのだ。私達は初對面の挨拶を交した。
私は其後の捜査模様を知ろうと、母に次から次へと矢つぎ早に質問した。家の者もみながみな元氣でいることを知つて喜んだ。私の姿をじつと默つて見ていた妹の婚約者は、冷靜にそして決斷的に「これは時間の問題です。未だ未だその道は遠く嶮しいことゝと考えますが、どうか頑張つて生きて下さい」と男性的な聲で激勵してくれた。そして色ゝな状況を批判的な口調で說明もしてくれた。
私達は二時間ばかり坐つてあれこれ話に打込んだ。以前の面會の時もそうであつたが、私自身のことは決して話さなかつた。どこに居るともどうやつて暮しているとも一切、母にさえ口外しなかつた。誰にも興味のあることだが訊こうともしなかつた。唯元氣で働いて一日一日を送つていることを、知つて貰うだけで充分だと考えていた。それは訊問の際、私の居所を知つているということゝ、事實知らないということゝでは隨分心理的に苦痛の點でちがつてくることゝ思つていたからだ。
影のように來て影のように去つていくだけで、お互いに滿足していたのだつた。彼は時時注意深そうな目で、周圍を氣にして二人を見守るようにしていた。
この密會で、今までの勞苦と不安も打忘れ生きてきた歓びを心から味わつた。
生きることは何と素晴らしいものであるかと、思つたりして、この數時間の歓びに死の恐怖さえ霧散してしまつた。
母の話で私が心中者として三峯山中に、若い女と死體となつて葬られていたことを知つた。家族の者全部が死體現場まで檢證に連れ出され、確認するかどうか訊かれたのだつた。その死體は事實似ていることは似ていたのだつたが、半信半疑のまゝ「これが私の息子であるかどうか、はつきりと云い切れません」と申述べ、不明ということで歸ることになつた。案内の村人達は、しきりに確認して死んだ者として取扱つたらどうか、とすゝめたというのであつた。警察もGHQからの嚴しい捜査命令で本當に弱つていたのか、新聞にも報道したりして一時は大騒ぎしたので、知人や親戚の大部分は私が死亡したものであるという風に思つていた。
然しそんな事件があつた後も、ずつと係の刑事が、定期的に巡廻し探しに來ているのだつた。その後死體の側にあつたピストルの番號が私の部隊にあつた番號と一致せず、死體解剖に依る骨相的見地から本人でないことを知ると、躍起となつて新しく嚴重な捜査に乗り出して來たとも云つた。
これを聽いて私の歩むべき道の未だ遠くその嶮しいのに暗然となり、やり切れぬ思いをしたが、今迄以上細心の注意が必要と思い、都會の片隅で小さくうずくまつて暮してゆかねばならぬ自分を考えた。側で聽いていた妹の婚約者は、二人の涙と笑いの深刻な表情が、店の女給達の注意を引きはしないかと心配しだし「もうそろそろ別れた方が賢明ですね」と注意もし促した。生あればいつかは會えるのだ。生あつてこそ再び出發も出來るというものだと思つて、この短かい密會に別れを告げねばならなかつた。
別れぎわになつて彼は「こういう密會はまだまだ危険です。愼重な態度を望みます」と一言の注意をも忘れなかつた。私は生きて居れば、次の二年目か四年目の今日という日時に現われるかも知れないと云つて素早く新宿の雜踏にもまれていつた。
歸つて來たぞ! 初夏になると、今度はアイス・キャンデー賣りとして私は懸命に働いた。「甘いキャンデー」と印した小旗を箱に結びつけ、鈴をリンリン鳴らして走り廻つた。夏の田舎道を汗を流して無心に自轉車を驅つた。お客は少年少女が多かつた。
無邪氣な童心に觸れることで、私はどれだけ救われた思いをしたか分らなかつた。私は買つてくれる子供達の頭を一人一人なでながらキャンデーを五色の虹にたとえ、お話をし一緒になつて歌もうたつた。田舎の夏にはあちこち小さな村祭りがあつて賑やかだつた。その祭りを追つて近在を驅けずり廻つた。
盆踊りの若い男女の踊る姿をみて、平和の息吹のうちに、育ちゆく人達に心から祝福もした。そこには最早や戰爭で蒙つた暗い影は微塵もなく、自由で平和な生命力があるだけであつた。若い生命が流れているこれらの情景に、今後の日本の再出發を感じとり、私だけが唯一人、醜い形骸を肩に背負つて歩いているように取りのこされた淋しさを味わつた。
獨りの生活はわびしく亂れがちとなつたが、吾が道をゆくの氣構えで歩く私にとつては、却つて責任と負擔のない一種の氣樂さがあつた。
夏も過ぎ秋の穫り入れで忙殺される日が續いた。七度び迎える冬にも鼻汁をすゝりながら私は懸命に働いた。年も明け、そろそろ暖かい陽差しが欲しい頃、寢轉んで新聞をみていた。
「左記の者戰犯容疑を解除さる」
という小さな見出しが目に飛びこんできた。一瞬私はギクッとした。それに六名ほどの名が連ねてあり、四番目にまぎれもない私の名前が出ていた。思つてもいなかつたこの報道は、容易には私を信じさせなかつた。
この七年間、心の底ではどんなに望んでいたことか。發表が餘り突然だつたので、たゞ茫然としてしまつた。どうして今頃容疑が解けたのだろうか。新聞を喰い入るように見つめ乍ら、また思案は暗い方へと傾いていつた。
これもまた一つの手だ、ノコノコ出てきたところを、引捕えるに違いないと斷定した。
その後も、私は魚の行商をして近在の百姓家を廻り歩いた。「本當から、いや芝居の手だよ」と何度となく繰返して反問しながら二ヵ月ほど過ぎたが眞僞を確かめようと決心して神戸の家を訪ねることにした。
須磨驛へ、夜晩く着いた。懐かしい潮風を胸一杯吸つて、私は人通りも少ない夜道を歩いていつた。家の前を二、三度往來し、思いきつて門前に立つた。若し何かの都合で引越しでもしてはいないかと、門燈の下で表札を確かめてみた。呼鈴を押したが出てくる氣配もなかつた。思い切り長く押した。誰かが庭石を傳つてくる下駄の音がきこえた。息を殺して待つ何秒かは、怖ろしく長い時間に思えた。
戸を開けてくれたのは弟であつた。すつかり大人びていた弟は、さほど愕きの色も示さず大きな聲で「睦チャン歸つて來たゾ!!」と叫び私を抱きかゝえるようにして奥へ連れこんだ。
警察からの通知もあつたというので、私は完全な解放と自由を得た喜びにひたつた。
消え入りそうになつた私の生命も、七年近くたゞ生きたいと思う一心で生きてきたのだつた。それは惨めで悲しい生活であつたが、現に生きている身を感謝したい氣持で一杯になつた。警察からも新聞社からも訪問を受けた。
戰爭の愚劣さと罪悪は、私は私なりにいやというほど知らされた。あの狂氣と興奮からは一切遠ざかるような生き方をしたいと思つた。